(注)栗原喜久治は、教会創立者である栗原久雄牧師の父です。 |
栗原久雄『この一筋の職(つとめ)』非売品、1970年、pp.39-41 |
…(略)…
しかし、彼がまだ、伝道一本の生活に献身するまでにならなかった時、突如、「厳粛なる召命」を受ける機縁となる一事件が起った。
1903年3月16日、彼は数日来の豪雨で5尺も増水した狩野川の渡しをわたった。田方平野をゆるく流れる、平和な狩野川も天城の山峡近いこの辺では奔流といった感じである。まして、この日の水勢の激しさはただならぬものがあった。
突然、舟をつないでいた針金が切れて、舟は激流にのまれた。船頭は、彼を抱えて岸に泳ぎつこうと言う。しかし、いくら手練な船頭でも無理である。
喜久治は言った−、
「私は神様を知っているから死んでもよい、一人で逃げてくれ……」
船頭は、一寸、躊躇していたが、
「先生、さようなら」
こういって泳ぎ去った。
間もなく、舟は岩にぶつかって底がぬけてしまった。水びたしになったまま、舟べりにしがみついて流されていった。段々と手足がこごえていく。もう、死を覚悟しなければならない。走馬燈のようにちらつく母や妻や子供達のために祈った。
くりかえし、くりかえし、讃美歌を、声を限りに歌った−、
我がたましいを愛するイエスよ
浪はさかまきかぜふきあれて
沈むばかりのこの身をまもり
天のみなとにみちびきたまへ
上からの声が聞こえる−、
「汝の舟を離れてはいけない」
たぶん、使徒行伝27:31の聖句が、とっさの間に思い出されたのであろう。
渡場から3キロ、水晶山という岩山が川にせり出ているところまで流された時、急に風の向きが変って、舟はその山の横の淵に入った。そして、流木拾いの男に助けられた−、
「有難う……」と、一言、そう言ったまま気絶して了った。やっと、意識をとりもどした時、彼は、鮮かに、召命を受けた人となっていたのである。
伝道師となった彼は、救の恩恵をかみしめて、耐え忍びつつ歩みぬいた。その足跡は中伊豆一円に及び、地味な農村伝道者の道をあゆみ通された。聖書や小冊子をつつんだ風呂敷をかかえて、とぼとぼゆく、老書生然とした姿が思い出される。彼はすべての人から愛され、多くの人の間の和ぎの仲保者となり、文盲な村人の間に手紙を書いてやったり、墓石の碑文を書いたりした。
妻きうは1885年に受洗した御殿場の最初の信者である。彼女の熱心によって、その母も弟も信仰にはいり、3人は、夜中、あるきつづけて、三島の礼拝に出た。
夫妻の真実は、その家庭にも、見事な実を結んだ。一女は牧師の妻となり、その一子は栗原久雄である。何という大いなるゆずりであろう。地上弧、天上の円、忍耐の一生は報いられて、永遠の栄光に輝く。かくて、1936年、72歳をもって、御国に遷された。
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