蒲田の開始伝道事始め |
牧師 栗原久雄 |
蒲田に日本基督教会の伝道がどのように始まったか。最初からこのことに関係した当事者として、その経過をお話しするように書く。わたしは北米の留学を終えて1926年6月帰国した。明治学院神学部時代にわたしはダッチリフォームド・ミッションの給費生であったので2年間の義務年限を義務づけられていた。帰国後は同ミッション伝道地域である九州地方で働くことになろうと覚悟していたので、同ミッションに指示を求めた。ところがミッションの宣教師は私の学んだユニオン、ハーバードの両神学校が、自由主義な過激な神学校であるという理由で、わたしを忌避し、義務年限の責任を解除してくれた。私はやむなく郷里伊豆にて病母を看護しながら道が開けてくるのを待っていた。ところが思いがけないところから道が開けて来た。それは東京中会の申合ミッションである北長老教会協力委員会の委員長川添万寿得牧師から便りがあり、この度東京近郊に開拓伝道地を開設する議がおこり、わたしをその主任者に招聘したいがどうかとの手紙であった。わたしは主が備えて下さった道と信じ受託し、9月に上京した。まず開拓伝道の場所を選定することが先決のこととして、協力委員である川添牧師、田島進牧師、郷司牧師にわたしも同伴して、駒込、蒲田、川崎等の候補地を視察してまわった。その結果駒込が第一候補とすることに一致し、家を探して、大体目星をつける程に話が進んだが、折しも京都に開かれた大会にて、駒込は既に他の牧師が伝道に着手している事情が判明し中止となった。蒲田は最初の検分で委員の印象が悪く問題とならなかったが私は妙に心ひかれるものがあり、川崎などと較べて、ここならばやれそうだと思った。それでわたしは独りでもう一度視察にゆき、いよいよその確信をつよめられた。その日御園仲通りの横丁の路地で引越荷物を積んでいる荷車が目についた。空家になるのではないかと、聞いて見るとそうだという。それは8畳、6畳、2畳、湯殿付の手頃の家であった。当時は借家払底の時代で、空家は容易に見付からなかった。駅には近し開拓伝道には格好の場所なので、好機逸すべからず、咄嗟に心を決めて、その足で木挽町の家主を尋ねて、手金を払って借りる契約をした。委員達はわたしの筋道の通らぬ勝手な措置にも拘らず、熱意を買ってくれたか心よく承認してくれた。このようにして開拓伝道の場所が決定したのである。 私はまず大森教会の佐波教師の了解を求めねばならないと思い先生をお訪ねした。蒲田が大森教会の伝道地域内にあるので、先生の許しと後援を得ることは開拓伝道の成否の鍵となるともいえよう。幸いわたしは先生の日曜学校生徒であった。(注−わたしは少年時代芝浦製作所に入り、芝浦工人会のお世話になっていた頃、富士見町教会の日曜学校に通い、東大生であった佐波先生の生徒であった。)先生はよく覚えていて下さって非常に喜び、伝道開始についても好意を寄せられ、「君ならいいだろう。但しどんなことがあっても蒲田を捨てて逃げださないように」と念を押された。そして蒲田在住の信者、求道者を紹介して激励して下さった。わたしは11月中旬、妹ふくと共に蒲田へ引越して、伝道開始の準備をした。佐波先生より紹介された信者庄野さん、その他の関係者を訪問した。紹介された若い彫刻家柚木久具氏の下宿を訪ねたところ、芝浦工人会以来の旧友である郷淳平氏の家であった。同氏も開拓伝道に協力して下さるようになった。かくして11月28日に日本基督教会蒲田伝道所の開所式を行った。中会からは田島牧師、郷司牧師が派遣され、佐波牧師が説教をなされた。大森教会員、白金教会員が多数応援され、37名の来会者があった。その次の日曜日から毎日曜、朝の礼拝を守るようになり12,3名の出席者が与えられた。 蒲田に日基の伝道所ができたということを聞き伝えて、旧四谷教会員宇津井健一氏夫妻、高知教会員森梅老夫人などが訪ねてきて協力を申し出てくれた。宇津井さんはマッサージを営み、失明者であるにも拘らず、1923年頃よりずっと自宅で日曜学校を開いておられた信者で日基の伝道者の到来を待ち望んでいたといわれ、日曜学校を移譲したいと申し出られた。それで思いがけなくもその暮のクリスマス祝会を宇津井氏宅にて30名位の生徒とともにもつことができた。1月からは引き継いだ生徒を中心にして伝道所で日曜学校を始めた。1月の末に牧師は大塚キクエと結婚した。婦人会は歓迎の集まりを開き牧師夫人が紹介された。新夫人が加わり日曜学校、婦人会、訪問伝道などとみに活気づいてきた。婦人会は月1回の定期の集会の外、毎週1回の聖書研究をはじめ、祈祷会も宅廻りでもたれるようになった。2月5日、6日には最初の伝道集会が行われ、川添万寿得牧師により「神と人生」と題する伝道集会がなされ第一夕は24名、第二夕は34名の会衆が与えられた。3月6日の主の日には佐波牧師の司式にて最初の洗礼式が執行され、郷淳平氏、柚木久具氏2名が洗礼を受けた。 その頃伝道所に関係をもつ信者の数がふえ、東京中会に伝道教会建設願を提出する議が次第に熟してきて、創立会員になる志ある人々を募ったところ、20数名の申し出があった。また大阪東教会員牧茂氏は蒲田に開拓伝道の始まったことを聞き東京転任に際し蒲田に住居を求め、上京早々伝道所に来訪、協力を申し出られた。それで創立会員の申し出が25名(男13、女12)、客員6名となったので、4月6日鎌倉教会に開催された第41回東京中会に、蒲田伝道教会建設願を提出した。中会には牧師と委員宇津井健一氏が出席した。建設願は通過した。開拓伝道の開始以来わずか6ヶ月で伝道教会として認められるまでに至ったことは神の恵みと祝福の豊かであったことと一同感謝にあふれた。 5月29日には蒲田伝道教会設立式が挙行された。中会よりは設立委員として原田友太議長、笹倉牧師、中川景輝牧師が派遣された。原田議長が建設の式辞と説教を述べた。笹倉牧師は祝辞の中で、教会を盛りたてるために、@キリストに似た信者をつくること、A信者全部が働くこと、B子供に注意を注ぐことの3点をあげ、わが教会の行くべき道によき指針を示された。中川牧師は数より質であることを強調して激励して下さった。 |
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