灰燼の中より
牧師 栗原久雄
「便り」1945年6月25日
 相次ぐ空襲に災禍も累加しゆき、小さきわが教会においても第一次第二次と数えあげれば40有余の家庭が罹災されました。会堂は焼かれ、会員は焼かれ、あるいは離散して教会はその外形よりいえば容易ならぬ破局に臨んでいると申さねばなりません。本土が主戦場と化した今日やむを得ないことであります。幸い蓮沼の曽我さんのお宅がのこされ教会の仮集会所として備えられていますことは大いなる恵みと感謝であります。
 会堂は失われても牧師があり、信者がある限り教会が存在していることは申すまでもありません。むしろ会堂を失ってみて、教会の厳然たる存在を感ずること切なるものがあります。20年来育成されてきた教会、このようなことで倒れてしまうというようなことがあったら甚だ申し訳ないことであります。いわんや、教会は単なるこの世の集合体ではなく、神によって据え置かれたキリストを主とする天的の団体であり、聖霊に導かれる生きた共同体であります。
 生きものには苦難や破局はつきものです。否、破局を通じてのみ生き成長してゆきます。死んで生きていく、これが生物の成長してゆく形式です。これを脱皮という。冬眠の期あり、蛹となり繭中にひそみ、蛾となりて飛び立つ環境により形態も変わり生き方も変化してゆきます。死んで生きる、これがすべての有機体の成長の形式です。
 今は教会の死んで生きるときではないでしょうか。外なる人は破れ、教会本来の生き方、使命を遂行できません。外形的にいって死んだような状態ですが決して死んだのではありません。今は脱皮のときでことに霊的内的に申して真に己に死に、罪に死に、過去に死に、新たにキリストに在りて生きねばならぬときと思います。今や教会も個人も脱皮の時、生まれかわりの時です。この時がわが教会の古き初版を改訂して新版を出す機会といたしたいものです。
 われらの衷心よりの願いは灰燼の中より再び起き上がることである。しかしこの戦争は今直ちに再興することは容易なことではあるまいが、さしずめ命脈をつづけ存在をつづけることが大切である。神は必ず道を与え給うことを信ずる。無より有を生ぜしめ、新天新地を造り得る方を信じ力を一つにして進みたいものであります。

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